2009年06月29日

このように発展してきた日本の伝統医療は

このように発展してきた日本の伝統医療は、明治時代以降導入したヨーロッパ医学と区別する必要性から、皇方・皇漢方・和方・和漢方・東洋医学などと多くの呼び名が試行されたが、江戸時代に蘭方に対して用いられた漢方という名が、幕末よりほぼ一貫して一般的であると言える。漢方には前述のように本来鍼灸も含むが、現在漢方薬による治療のみをさすことが多い。日本においては鍼灸は医師・鍼灸師がおこない、漢方薬は医師・薬剤師がおこなう分業になっている事もその一因と考えられる。
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東医学:朝鮮半島で発達した中国医学系伝統医学の呼称(北朝鮮では1992年までこのように称していた)。
高麗医学:北朝鮮での呼称。1993年に東医学から改称した。
韓医学:東医学と同じものの韓国における呼称。韓方医学とも呼ぶ。
韓国では、現在通常の医師の他に伝統医学専門の医師(名称:韓医師)を養成している。中国における中医師を国策から模倣したものであるが、内容的には、ほぼ戦後成立した中医学の模倣であり、独自色は少ない。建前としては、『東医宝鑑』という医書を土台としていると主張している。『東医宝鑑』は、中国の逸書を含み、日本における医心方に似た位置づけの医書で、文献学的に価値があるとされている。 韓国の伝統医療分野の研究者は、日本、中国両国に対して強引に起源を主張する傾向があり、やや忌避されている。

2009年06月12日

血糖値がおよそ180mg/dlを越えると

血糖値がおよそ180mg/dlを越えると、腎臓の尿細管でグルコースの再吸収が追いつかなくなり尿に排出されるようになる。つまり尿糖は糖尿病の原因ではなく結果である。例として、スクロース(ショ糖)180g程度以上を一度に摂取すると健常人であっても一過性の糖尿を生ずる。これは食品成分表のコーラ・缶コーヒー等に示される量を基にすると2.5リットル前後(約1100kcal)に相当する。

極度に食事を取らなかったり、糖尿病の薬を飲みすぎたり、特別な病気があると低血糖症を引き起こしやすい [1][2][3]。また、前記のような状態で激しい運動を行った時にはより起こりやすくなる。

人体には低血糖に対し数段階の回避システムが用意されている。

血糖値が約80mg/dLを下回ると、血糖値を下げるホルモンであるインスリンの分泌が極端に低下する。
約65-70mg/dLに低下すると、血糖値を上げるホルモンであるグルカゴン、アドレナリンが大量に放出され始める。
約60-65mg/dLに低下すると、三番目の血糖値を上げるホルモン、成長ホルモンが放出される。
最後に60mg/dLをきるようになると、最後の血糖値を上げるホルモン、コルチゾールの分泌が亢進する。
血糖値が50mg/dlを下回ると、大脳のエネルギー代謝が維持できなくなり、精神症状をおこしはじめ、さらには意識消失を引き起こし、重篤な場合は死に至る。しかし上記のような回避システムが血糖値50mg/dLにいたるのを防いでいるため、通常は意識に異常をきたすには至らない。そのかわりとして、アドレナリンが大量放出されることに伴い交感神経刺激症状があらわれる(低血糖発作の症状はこれによる)。例としては、大量の冷や汗、動悸、手足のふるえ(振戦)、そして「死ぬかもしれない」という恐怖感などである。

これらの低血糖回避メカニズムは、脳が低血糖状態を検出し、血糖を上げるホルモンを動員するよう命令することで開始される。糖尿病治療中やインスリノーマなどの疾患で低血糖症を頻発すると、あまりに頻繁に低血糖状態を脳が検出するために、ある程度の低血糖症では回避システムが働かなくなってしまう。より正確に言うと、脳内の低血糖を感知する領域では細胞外のグルコースをそのまま取り込むことによって血中グルコース濃度をGLUT1トランスポーターがモニターしており、低血糖を頻繁に起こすとこのGLUT1トランスポーターの転写が低下し調整不足をおこす。50mg/dLをきっても発動しないようになると、低血糖発作をおこさないまま精神症状がはじまる。10-20mg/dLをきっても発動しなくなると、低血糖発作をおこさないまま意識がなくなり死亡することもある。

逆に、管理がうまくいっていない糖尿病患者などにおいては、あまりに高血糖状態が続くため、100mg/dL前後のような普通は低血糖とはみなされないような濃度でも低血糖発作をおこしてしまう。これは脳のGLUT1トランスポーターが調整過剰になっているためである。
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治療としては基本的には血糖値が70mg/ml以下のときは40kcalほど摂取することが望ましいとされている。経口摂取が可能な場合はブドウ糖10gやグルコレスキューを一袋、インタクト5個といった糖分補給を行う。もちろん糖分を含む飲み物を摂取しても同じである。意識障害があったり30mg/ml以下の低血糖や経口摂取が不可能な場合は点滴で即急に治療する。5%ブドウ糖液50mlに50%ブドウ糖液20mlを混注して点滴投与する方法がよく知られている。

2009年06月07日

座金(ざがね)とは、ボルトをナットなどにより

座金(ざがね)とは、ボルトをナットなどにより締め付ける際に挟み込む穴の空いた板状の機械要素。ワッシャーとも呼ばれる。ねじの径に対応して規格化されている。 軸に挿入されるカラーのうち幅の狭いものも形状が似ているため同様に呼ばれることがある。

被締結材にナットやボルト頭がめり込む事(座面陥没)を防止する、あるいは穴径がボルト径に比べて大きい場合、座面を安定させる場合などに用いられる。

緩みの防止 [編集]
振動などによりボルト・ナットが緩むことを防ぐために用いられることもある。
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気密 [編集]
気密を保つために銅、アルミなどの軟質金属、ゴム、ポリカーボネート、PTFEなどの材質も使用される。この場合ガスケットと呼ばれることもある。

絶縁・導電 [編集]
電気機器などで絶縁が必要な場合のために、紙製やプラスチック製のワッシャーが用いられることがある。逆に、アースとして利用される部位では必ず導電性のある金属製のものを用いなければならない。
平座金 [編集]
平ワッシャー、規格:JIS B 1256。 平らな円盤状のもの。ねじに対して通し穴が大きい場合や軟質材料など、軸力に対して十分な座面が得られない場合に用いられる。被締結物に対し強度が大きく違うと座面陥没の発生する恐れがあるため、座面強度と軸力を考慮して選定する必要がある。

ばね座金 [編集]
スプリングワッシャー、規格:JIS B 1251。 平座金の一部を切断し、切り口をねじることによりばね作用を持たせたもの。切り口が座面に食い込みある程度の緩み止めが期待できる。また、緩んだ後もばねの力によって更なる回転が抑えられ脱落防止の効果が得られるが、適切に締められたねじが緩むような環境ではあまり期待できない。 右ねじに対して緩み止め効果を発揮するために、切り口を手前にしたときに右側が上になるようにねじられている。


2009年04月24日

色丹島(サハリン州南クリル管区)

マロークリリスク(Малокурильск=「小千島の町」の意)とクラバザヴォーツク(Крабозаводск=「カニ工場の町」の意)…日本名は斜古丹と穴澗。シコタン島(Остров Шикотан)(日本名 色丹島)の2大集落。中心地はマロークリリスク。「小千島」とは、根室半島に連なる歯舞群島と色丹島の列島を、ロシア側は「小千島列島」(Малая Курильская гряда)と呼んでいることに由来する。穴澗には日本の拿捕漁船乗組員の収容所がある。1945年8月、ソビエト連邦によって占領され、連邦崩壊後は、それを継承したロシア連邦が占領・実効支配している。面積255.12平方km。人口3,195人(2005年現在)。

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国後島(サハリン州南クリル管区)
ゴロヴニノ(Головнино)…日本名は泊。ロシア連邦による占領・実効支配が続いている。人口は350人(1992年)。ゴロヴニノとは「ゴロヴニンの町」という意味である。ゴロヴニンとは、日本では一般には「ゴローニン」として知られている人物である。
ユージノクリリスク(Южно-Курильск=「南千島の町」の意)…戦後ソ連によって新たな中心都市が、ソ連軍侵攻前の漁村であった古釜布(ふるかまっぷ)を望むほぼ無人であった高台に建設された(人口6,300人(1992年))。ソ連邦崩壊後はロシア連邦が占領・実効支配している。現在は中心地の古釜布を除き廃村状態。
国後島が見える街
対岸に位置する標津町、羅臼町からは国後島(泊村を間近に見ることができる。ただし、国後島の北岸側には居住エリアはほとんど無く、対岸に人家らしい影はほとんど見ることができない。夜間に時折、自動車のヘッドライトを見ることができる程度である。

択捉島(サハリン州クリル管区)
ブレヴェスニク(Буревестник)…日本名は天寧。6,500人(1992年)が住むのみで、かつての中心地である留別(ロシア名クイビシェフ Куйбышев)やドブロエ(Доброе)日本名・内保等、他の集落は廃村状態。島唯一の軍民併用空港である天寧空港(ブレヴェスニク空港)があり、サハリンのユジノサハリンスク空港との間に便がある。週3?4便の定期便は、有視界飛行が前提のため欠航が多い。このため、隣接する紗那村のクリリスク郊外に新飛行場が建設されており、完成時には廃港されるとの観測もある。
クリリスク(Курильск=「千島の町」の意)…日本名は紗那、人口2,700人(1992年)。なお、中心地・紗那から北東約14kmにレイドヴォ(Рейдово)日本名・別飛があり、産業の中心地である。人口は1,700人(1992年)。隣接する留別村、蘂取村には道路が通じているが、いずれも舗装はされておらず砂利道である。留別村に向かう道路は、島唯一の空港に向かう道路でもあり、ある程度の整備はされているが、蘂取村に至る道路は寒村(ロシアが設定した自然保護区域)ということもあり、GoogleMapsでようやく観察できる程度の整備状況である。クリリスク近郊に、2003年頃から1,500m級の飛行場が建設されていると伝えられる。全天候型の空港であるとされ、島の住民の悩みであるユジノサハリンスクへの定期便の欠航率が劇的に低下するものと考えられている。
スラブノエ(Слабное)…日本名は蘂取。現在は村域のほとんどがロシア当局によって自然保護区に指定されており、地元のロシア人さえも立入を制限された地域である。嘗て紗那からオホーツク海側に沿っての道路があったが今では人工衛星上からも微かに見えるだけで、通行も困難となり、ヘリコプター以外で行く事は困難な、寂しい廃村となっている。

2009年04月06日

ア・カペラ

ア・カペラ(イタリア語 : a cappella)は、一般的に、無伴奏で合唱・重唱すること、またはそのための楽曲のことである。音楽史や古楽などの用語としては、ヨーロッパの教会音楽の一様式を指し、伴奏の有無は問わない。元々は後者の意味であったが、そこから派生した前者の意味がもっぱら普及している。

日本語では「アカペラ」、あるいは、イタリア語の発音に近い「ア・カペッラ」との表記も見られる。まれに、英語発音の「アーカペラ」の表記もある。
イタリア語のa cappella(アカペラ)は、英語のin chapelに相当し、「聖堂で」「聖堂において」という意味の副詞句である。これが形容詞句・名詞句化して、教会音楽の1つの様式を指すようになった。

ア・カペラ様式の特徴は、

曲の全体または一部がポリフォニーとなっている。
簡素で、歌詞の聞き取りが容易である。
複数のパートからなり、無伴奏または、歌のメロディーをなぞる程度の簡単な伴奏をつけて歌う。
というものである。広義のア・カペラは1と3、あるいは、単に3を満たす教会音楽をさす。したがって、必ずしも「ア・カペラ=無伴奏」ではない。

ルネサンス音楽では、音楽家が教会を舞台にして、複雑で豪華な曲作りを競い合っていた。このため、宗教儀式なのか音楽会なのか分からない状態となり、また肝心な歌詞が聞き取りにくくなっていた。これを問題視したバチカンは、さまざまな教会改革(対抗改革・トリエント公会議)の一環として、教会音楽の簡素化にとりくんだ。こうして生まれたのがアカペラ様式であり、それをになった代表的な音楽家がジョヴァンニ・ダ・パレストリーナである。事実、パレストリーナの曲は、それ以前の曲よりも平易で歌いやすいものが多い。

ルネサンス合唱曲は、伴奏がつけられるとしても、楽譜は無伴奏の形で書かれているものが多い。ダウランドの作品のようにタブラチュアの形で伴奏譜がついている楽曲もあるものの、世俗曲は伴奏を即興的につけるのが普通であり、宗教曲は上記3の理由から、なおさら楽譜に伴奏パートを記す必要がなかったからである。

こうした事情も加わって、ア・カペラ様式の音楽が無伴奏で歌われるイメージが強く、いつしか「ア・カペラ=無伴奏合唱」という誤解が生じ、さらには教会音楽以外の無伴奏合唱や無伴奏ボーカルアンサンブルを広くさすようになった。この誤解はクラシック界・ポピュラー界の両方に浸透している。近年は無伴奏独唱をアカペラと呼ぶ極端な用法も広まっている。

このように「ア・カペラ」は、音楽学でいう意味と世間一般でいう意味が著しく乖離している。

クラシック音楽でのア・カペラ [編集]
ア・カペラは教会音楽で古くから頻用される。グレゴリオ聖歌がその好例である。アーミッシュ派、バプテスト教会、キリスト教会をはじめとしたいくつかの教派では、宗教行事において楽器を伴奏に用いないことで知られる。

作曲家たちは中世・ルネサンス時代と対位法的に声部を掛け合わせていく方法でア・カペラの合唱を練り上げてきた(ポリフォニー音楽)。バロック時代、古典派の時代で和声法が徐々に確立する流れと共に、ソプラノ・アルト・テノール・バスの4声からなる合唱の作曲方法が取られ、ア・カペラの合唱は「横の流れ」と「縦のハモり」を得ることになった。

現在でも非常に多くの作例があり、合唱団の重要なレパートリーとなっている。

正教会聖歌 [編集]
正教会の聖歌はごく一部の稀な例外を除き器楽の伴奏を禁じられており、無伴奏声楽の形態をとる。そのため、チャイコフスキーやラフマニノフ、フリストフといった、器楽曲の面でも才能を発揮した作曲家達も、無伴奏声楽で正教会の聖歌を作曲した。無伴奏声楽という意味ではこれもア・カペラと言って良い。ただし、正教会内では「ア・カペラ」の語を使うことはまれである。

ピッチの調節には音叉が広く用いられるが、もっぱら神品の声に合わせてピッチの基準とすることも多い。そのため、楽譜に指示された調を転調して歌うこともしばしば行われる。

ポピュラー音楽の「ア・カペラ」 [編集]
以上のようにア・カペラはクラシックな合唱曲のものであった。しかし一部のポピュラーアーティスト達がア・カペラのスタイルに注目するようになり、1980?90年代にかけてミュージックシーンで人気が沸騰することとなった。その火付け役となったのがテイク6などといったア・カペラグループのヒットである。

日本でア・カペラ人気を牽引した立役者にはゴスペラーズが挙げられるだろう。彼らより先にア・カペラを自らの音楽に取り入れたのはスターダスト・レビューやチキンガーリックステーキである(ゴスペラーズがア・カペラをする際、手本にしたのはスターダスト・レビューのア・カペラである)。2001年には、フジテレビのバラエティ番組「力の限りゴーゴゴー!!」のコーナー「ハモネプ」に出演して注目を集めたRAG FAIRがア・カペラブームの火付け役となった。

ポピュラー音楽のア・カペラでは、クラシックの和声的、対位的な構成だけでなく、ジャズ・ハーモニーによる構成をともなうことも多い。クラシックの合唱と異なりマイクの使用を前提とするため声でパーカッション効果を出す(ヴォイス・パーカッション、ヒューマンビートボックス)など様々な手法を用いることができる。

なお、ポピュラーにおいてはアカペラという表記が一般的である。

演奏 [編集]
ア・カペラを演奏する際には、伴奏のある場合と異なりピッチの調節が大きな課題となる。演奏前にピッチパイプや音叉などで音をあわせるが、それ以降の音高のずれは蓄積していくため、演奏者により正確な音感が求められる。また、伴奏のないぶん和音の美しさで声に厚みを持たせているので、ベースを中心にぴったりハモっている必要がある。

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2009年03月22日

ポリ塩化ビニル

ポリ塩化ビニル(ポリえんかビニル、polyvinyl chloride、PVC)または塩化ビニル樹脂とは一般的な合成樹脂(プラスチック)の1つで、塩化ビニル(クロロエチレン)を重合したものである。俗に塩化ビニール/塩ビなどと呼ばれるが、このような呼称は単量体である塩化ビニル(クロロエチレン)との混同を生じるおそれがある。そのため、単量体である塩化ビニル(クロロエチレン)を特に塩化ビニルモノマーと呼ぶことがある。

塩化ビニルモノマーを重合させただけの樹脂は硬くて脆く、紫外線などにあたると分子を構成する塩素原子がはずれて劣化黄変しやすい。利用のためには柔らかくする成分(可塑剤)と劣化を防ぐ安定剤を加える。熱を加えると軟化する(熱可塑性樹脂)。

ポリ塩化ビニルは塩化ビニルモノマー(CH2=CHCl)を付加重合させて合成され、その化学反応式は次の通りである
硬質にも軟質にもなり、優れた耐水性・耐酸性・耐アルカリ性・耐溶剤性を持つ。また難燃性であり、電気絶縁性である。このような優れた物性を持ちながらソーダ工業との関係で非常に値段が安いことから用途は多岐にわたり、衣料、インテリア(クッション材、断熱・防音材として)、ロープ、電線被覆(絶縁材)、防虫網、包装材料、レコード盤、水道パイプ、消しゴム(プラスチック字消し)、フィギュアなど多数あり、最近では一部の自動車用のアンダーコートとしても用いられている。

日本では、1941年に工業化された(なお、塩化ビニルモノマーについてはエアロゾルの噴霧助剤として使われていたが、1970年頃に人体に害を及ぼすことがわかり使用禁止となった)。現在、年間約200万トン製造されている。
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1990年代には、ポリ塩化ビニルをはじめとする塩素系プラスチックがダイオキシン類の主要発生源と考えられ社会問題として浮上し、不買運動にもつながった。現在ダイオキシンは塩素系プラスチックのみならず、塩素と炭素が含まれる廃棄物を焼却処分する際に不完全燃焼になると発生すると考えられている。対処法として焼却炉の性能向上による不完全燃焼率の軽減、分別により塩素を含むごみを焼却しない、リサイクル制度の拡充、塩素系プラスチックの使用量削減などが提案されている。また、業界団体からは焼却炉からのダイオキシンの主要発生源はポリ塩化ビニルではなく食塩によるものとする研究も出されている。これに関連して、文部省(現・文部科学省)は学校の焼却炉を廃止するように通達を出した。

また近年、いわゆる環境ホルモンへの関心が高まる中でポリ塩化ビニル中に含まれる可塑剤が食品中などに溶け出すことで人体に与える影響も取り沙汰されるようになった。そのためこれまで可塑剤として多く用いられていたフタル酸エステルから、人体への影響や溶出量が少ないとされる他の可塑剤への切り替えが進んでいる。[1]

玩具にも柔らかく変形する人形はソフビ(ソフトビニル)人形と呼ばれ怪我などに対する安全上の配慮からも多く用いられて来たが、現在では使用が制限され代替材料としてエラストマー樹脂が用いられるようになった。

また、弁当などの食品製造時に用いられている手袋も同様の理由から問題となった。

2000年6月、厚生省(現・厚生労働省)は食品製造時のポリ塩化ビニル製手袋の使用をとりやめるように通達を出した。

こののち2003年の環境省検討会において、フタル酸エステルには環境ホルモン様作用が確認されなかったことが明らかにされた。

また、重量比にして塩素が約半分を占めており、石油消費量などが小さいため現在では他の石油系プラスチックに比べてポリ塩化ビニルは二酸化炭素排出量が小さく、環境への影響が小さいプラスチックであるという見方もなされるようになってきた[2]。 樹脂化学業界団体は、「塩化ビニルは製造プロセスにおけるエネルギー投入量が他の炭化水素系樹脂と比較して少なくて済む」「石油消費量が他の炭化水素系樹脂と比較して少なくて済む」「高断熱性で省エネに貢献する」などと主張している[3]。

その一方で、他の一般的な炭化水素系樹脂と比較して化学的性質がかなり異なるため、樹脂を再生利用する際にポリ塩化ビニルが混在していると障害の原因になりやすい[4]。このため、環境問題について取りざたされる場合には賛否両論である。

2009年03月07日

コロンビア (防護巡洋艦)

コロンビア (USS Columbia, C-12/CA-16) は、アメリカ海軍の防護巡洋艦。コロンビア級防護巡洋艦の1番艦。艦名はサウスカロライナ州コロンビアに因む。その名を持つ艦としては4隻目。

艦歴
コロンビアはペンシルバニア州フィラデルフィアのクランプ造船所で建造される。当初は三本の煙突で設計されたが、コロンビアは建造途中に四本となり、姉妹艦のミネアポリス (USS Minneapolis, C-13) は二本に変更された。1892年7月26日にH・モートンにより進水し、1894年4月23日に艦長G・W・サムナー大佐の指揮下就役する。
ライバ デッサン シーソーゲ ニーメイ ピーツ ハンチョウ リチャー ムース ディー ガイドモフ サプライズ トドマ シャベル バスレーン ローラー きざらし ヤコブ 風雷坊 コムサ プラトン シッダー ワンマ ガスマス ユーコ タウン憂山 フィナス フラワー 月のうさぎ ボリー フィア プロジェク シャム プレー ロブノー フレア シャフト モニカ シエラ キチン リング ビーエス ローシルク リーク スペード イマン バスガド サーチ予言 フラスコ スカルプ ジョイント

コロンビアは北大西洋戦隊に配属され、1894年7月30日から1895年1月5日までカリブ海でのアメリカ合衆国の権益を保護するために巡航した。1895年の夏にヨーロッパを訪れ、6月にはキール運河の開通式にアメリカ合衆国代表として参加した。8月に東海岸に帰還し、西大西洋での作戦活動に従事、1897年5月13日にフィラデルフィア海軍工廠で予備役となる。

1898年3月15日に再就役したコロンビアは、米西戦争では大西洋岸沿いおよび西インド諸島で偵察を行う。7月から8月14日まで行われたプエルトリコ占領では上陸部隊の警護を行う。コロンビアは1899年3月31日にフィラデルフィア海軍工廠で再び予備役となる。

1902年8月31日に再就役し、ニューヨークで訓練艦として1903年11月9日に大西洋訓練戦隊に加わる。1907年5月3日に予備役となるが、1915年6月22日に潜水小艦隊に旗艦として加わる。大西洋の様々な潜水艦基地を巡航、視察した後、1917年4月19日にその任を離れる。

コロンビアはデラウェア防波堤沖を第5偵察戦隊の旗艦として1917年4月21日から7月まで偵察巡航し、その後船団護衛として巡洋艦隊に合流する。1918年1月1日から11月13日までの間にコロンビアは5度の大西洋巡航を行い、フランスへのアメリカ軍海外派遣軍の兵員、物資輸送を護衛する。1919年1月7日にその任を離れ、大西洋艦隊駆逐艦部隊第2戦隊の旗艦となり、東海岸沿い及びカリブ海で作戦活動に従事する。5月29日に旗艦の任を離れ、1921年6月29日にフィラデルフィア海軍工廠で退役するまで、巡航を続けた。

コロンビアは1920年7月17日に CA-16 (装甲巡洋艦)に艦種変更され、1921年11月17日にオールド・コロンビア (Old Columbia) と改名された。その後1922年1月26日に売却された。

2009年02月18日

八木・宇田アンテナ

八木・宇田アンテナ(やぎ・うだアンテナ、英語:Yagi-Uda Antenna)は、八木秀次、宇田新太郎によって開発されたアンテナの一種である。一般には八木アンテナという名称で知られている(下記の歴史的経緯を参照されたい)。
ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ

主に、テレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線の基地局用などに利用される。変わった所では、自衛隊の移動式地対空ミサイル施設のレーダーのパラボラアンテナの輻射器に八木・宇田アンテナが用いられているものもある。(洞爺湖サミット開催時の、扶桑社「週刊 SPA!」の写真より)

一番後に反射器、その前に輻射器(給電する部品)、その前に導波器を並べた構造になっている。

導波器は棒状で輻射器よりも短く、反射器は同形状で輻射器よりも長い。このアンテナは指向性があり、その方向は反射器から導波器の方向になる。

今日の超短波(VHF)帯以上の実用的な構成としては、反射器は通常1素子を、導波器は複数を用いて指向性を鋭く、アンテナの利得を高くするようにしている。輻射器としては半波長ダイポールアンテナまたは折返しダイポールアンテナが用いられる。垂直偏波の場合は、スリーブアンテナやブラウンアンテナが用いられることもある。

電波を受信する際、素子数が少ないほど利得が小さく近距離受信に向いており、逆に多いほど利得が大きく遠距離受信に向いている。一般的に放送区域内の極超短波(UHFテレビ)放送受信には中距離受信用(14〜20素子程度が多い、電界強度が非常に強い場合はそれより少ない素子数のものを用いる)のアンテナをアナログ放送は地上m程度の高さ、デジタル放送は地上10m程度の高さで受信、放送区域外の場合は遠距離受信用(20?30素子程度、場合によってはパラスタックアンテナ)のアンテナで受信する。

但し、素子を増やせば増やすほど素子1本追加する毎の利得の伸びは小さくなり、その反面、形状が非常に大きくなり設置が困難となるため、一般に市販されているテレビ放送受信用の場合VHFで15素子、UHFで30素子、FM放送受信用の場合10素子を越えるアンテナは一般的ではない。しかし、指向性は鋭くなるため混信防止などの目的でこれらの数を越える素子のアンテナが用いられることもある。

主に放送受信用として利用されている各周波数帯用のアンテナの種類は、FM放送用(76?90MHz)・VHFローチャンネル(1?3ch)用・VHFハイチャンネル用(4?12ch)・VHFマルチチャンネル用(VHF全1?12ch)・UHFローチャンネル用(主に13?28ch)・UHFハイチャンネル用(主に25?62ch)・UHFマルチチャンネル用(UHF全13?62ch)などがある。また、VHF・UHF共用のアンテナも存在する(主に関西地方などで利用されるほか、地上アナログ放送と地上デジタル放送の受信アンテナを一本化できるため、関東地方でも立てている世帯も僅かながらある)。

送信アンテナから近く、十分に電界強度がある地域でも、素子数の多いアンテナを使う方がよいことがある。ビル街や地形などによりマルチパスが生じている場合である。素子数が多いアンテナは指向性が鋭いので、マルチパスの影響を受けにくくなるからである。指向性を鋭くするには、素子数の多いアンテナを使う以外に、スタックを組む方法もある。水平面の指向性を鋭くするには水平スタック(パラレルとも言う)を組み、垂直面の指向性を鋭くするには垂直スタックを組む。

このアンテナと非常によく似た形の位相差給電アンテナや対数周期アンテナがあるが、これらは原理が異なる別のアンテナである。

歴史
このアンテナが発明される発端は、当時八木、宇田が所属した東北帝国大学工学部電気工学科で行われていた実験にあった。実験中に電流計の針が異常な振れ方をするので原因を探求したところ、実験系の近くに置かれた金属棒の位置が関係していることが突き止められた。ここから八木、宇田によりこのアンテナの基本となる原理が発見され、教授の八木の指導の下で当時八木研究室にいた講師の宇田新太郎が実用化のための研究に取り組み、1928年に八木・宇田の連名で論文が出された。しかし、国内外の特許出願が八木の単独名で出されたため、日本国外の人々には“Yagi antenna”として知られることとなる。後述するように日本では海外からの情報により八木アンテナが注目されるようになった経緯もあって、日本国内でも八木アンテナとの名称が広まった。後年、事情を知る人達が宇田の功績も称えるべきと、「八木・宇田アンテナ」と呼ぶべきと主張し[1]、最近の学術書などでは八木・宇田アンテナと記述されている。

欧米の学会や軍部では、八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船はおろか航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備された。しかし、日本の学界や軍部では敵を前にして電波を出すなど、暗闇に提灯を燈して位置を知らせるも同然と、殆ど注目されず、その存在を知る者も殆どいなかった。 そのため、1942年に日本軍がシンガポールの戦いでイギリスの植民地であったシンガポールを占領した際にレーダーとその技術書を発見したが、“YAGI”という意味不明の単語が頻繁に出てきており、例えば『送信アンテナはYAGI空中線列よりなり、受信アンテナは4つのYAGIよりなる』と言った具合にこの技術書の中に至るところにあった単語"YAGI"の意味を解らず、「ヤギ」とも「ヤジ」とも読めるし理解には至らず捕虜のイギリス兵に質問したところ、「…本当に知らないのか?」と、このアンテナを発明した日本人だと教えられて驚嘆したと言われている。

2007年現在においてもこれほど汎用性が高く、抜群の精度を誇るアンテナは開発されていないと言われる。なお、この発明は電気技術史に残るものとして1995年IEEEマイルストーンに認定されている。本業績のマイルストーンは東北大学片平キャンパス内に置かれている。

無線のエネルギー伝達
八木秀次は1926年2月に、このアンテナで無線のエネルギー伝達を試みた。八木と宇田は、波のプロジェクター指向性アンテナ (Wave Projector Directional Antenna) に関する最初の報告書を公表した。八木は、何とか概念の証拠を実証したが、技術的問題として従来の技術よりも、より煩わしいことが判明した。

2009年01月28日

七尾城の戦い

七尾城の戦い(ななおじょうのたたかい)は、天正4年(1576年)11月から天正5年(1577年)9月にかけての能登国七尾城での戦い。

発端
発端は天正3年(1575年)8月に遡る。天下布武を目指す織田信長は、柴田勝家に越前侵攻を命じ、当時越前を支配していた石山本願寺の下間頼照ら1万2000人の宗徒を処刑させた。これに対して越後の上杉謙信は危機感と不快感を抱き、それまで結んでいた信長との同盟を破棄し、翌天正4年(1576年)にはそれまで対立していた顕如と和睦し、共同して信長と対決することにしたのである。

天正4年(1576年)9月、謙信は2万と号する大軍を率いてまず越中に侵攻する。越中は、もともと河内畠山氏が守護であったが、戦国時代に入ると守護代の神保氏、椎名氏らが力をつけて互いに覇権を争っていた。能登畠山氏では畠山義綱が永禄9年(1566年)に家臣団によって追放され、その後釜として擁立された畠山義慶も天正2年(1574年)2月に不慮の死を遂げた。これは一説に家臣の遊佐続光と温井景隆による暗殺とも言われている。そしてその後を継いだ弟の畠山義隆も天正4年(1576年)に死去し、遂にはその義隆の子でまだ幼児の畠山春王丸が擁立されるなど著しく不安定であった。大義名分は、かつて畠山氏から人質として差し出されていた上条政繁こと畠山義則を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するというものであった。

第一次七尾城の戦い
これに対して、能登城内では老臣筆頭長続連の指導の下、籠城戦と決定する。続連が七尾城の大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口をそれぞれ守備することを決めた。さらに続連は謙信の背後を撹乱するために、笠師村や土川村、長浦村などの領民に対して一揆を起こすように扇動したのである。ところが、謙信もかつて一向一揆に悩まされた経験から一揆に関する情報網があり、これらを全て鎮圧した上で七尾城を囲んだ。しかし、七尾城は畠山義総によって築かれた難攻不落さで縄張りも広く、春日山城にも匹敵する堅城だったためさすがの謙信も攻めあぐねていた。そこで七尾城を孤立させるためにその支城群に矛先を転じた。

鹿島郡中島町谷内にある熊木城、珠洲市正院町川尻の黒滝城をはじめ、羽咋郡富来町八幡の富来城、羽咋郡富来町の城ヶ根山城、羽咋市柳田町にある粟生七郎の粟生城、鳳至郡柳田村国光にある牧野上総介の米山城などが、あっという間に落として七尾城は孤立させた。しかしそれでも、堅城を頼む七尾城の続連らは降伏しなかった。

そして越年した天正5年(1577年)3月、小田原城の北条氏政が、謙信の領地である上野国に大軍を率いて侵攻しようとしたため、謙信は帰国することを余儀なくされた。このとき、謙信は熊木城に三宝寺平四郎と斉藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を、黒滝城に長景連を、穴水城に長沢光国と白小田善兵衛を、甲山城に轡田肥後と平子和泉を、富来城に藍浦長門を、石動山に上条織部と畠山将監をそれぞれ配置した上で一旦春日山に戻った。

畠山軍の反撃
謙信が越後に帰国すると、七尾城にあった畠山軍は即座に反撃を開始した。熊木城は畠山の家臣・甲斐親家の謀略で誘いに乗った斉藤帯刀が裏切りを起こし落城、七杉小伝次は自害し、三宝寺平四郎と内藤久弥は討ち死にした。富来城にも畠山の家臣・杉原和泉を総大将とした軍が押し寄せ、藍浦長門は捕らえられて処刑された。また、続連自身も自らの居城であった穴水城を奪還すべく出陣するなど、畠山軍の攻勢は凄まじかった。

第二次七尾城の戦い
ところが閏7月には、北条軍をあっという間に破った謙信が、再び大軍を率いて能登に攻め寄せてきたのである。驚いた続連は、慌てて奪い返した各地の城を放棄して全兵力を以って七尾城に籠もった。さらにこの時続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせたのである。このため、城内は兵士と領民合わせて1万5000人近くの大人数となった。数なら越後勢に決して劣らない人数だったのである。

ちなみに、このように七尾城で慌てて再び籠城戦の準備がなされていたとき、穴水城の長沢光国と甲山城の轡田肥後が七尾に攻め寄せたが、逆に敗退している。

七尾城は堅城であったが、籠城戦が続く中、城内で疫病が起こり、畠山軍の兵士たちは戦いではなく、疫病で死ぬ者が相次いだ。また幼君の畠山春王丸も籠城中に死去してしまった。窮した続連は、子の長連龍を使者として安土城の織田信長のもとに派遣し、後詰を要請すると共に小伊勢村の八郎右衛門に一揆を起こすように扇動した。ところが、一揆はまたもや謙信によって事前に封じ込まれ、七尾城は落城寸前となった。

このような中で、かねてから親謙信派であった遊佐続光は、かねてからの謙信の呼びかけに応じ、仲間の温井景隆や三宅長盛(景隆の弟)らと結託して内応しようとしていた。もともと彼らは、親信長派として実権を自分たちから奪った続連を快く思わず、しかもこのまま抗戦しても勝機が無いと踏んだからである。そして9月15日、十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れたのである。この反乱によって続連とその子・長綱連、さらに綱連の弟・長則直や綱連の子・竹松丸と弥九郎ら長一族はことごとく討たれてしまった。長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った連龍と、綱連の末子である菊末丸のみであった。こうして七尾城は謙信の手に落ちた。能登も完全に謙信の支配下に入ったのである。

戦いの影響
この七尾城の戦いは、謙信にとっては重要な戦いだったようである。謙信はこのとき『十三夜』の詩を作っている。この勝利で能登を版図に加えた謙信は、結果戦力をさらに増強、西上して信長征伐の意思を示したのである。
キャン ふかがわ プルート てっさく はだいろ バーモ ナローボ シーケン ぱぱいあ リナリア デッド トッカータ あまぎ セレクション チャート マグマ クサノオ レンチ ブッキ カネノナル フェース プロップ くけい テク ぶうぶう ゴロ シーソー おはじき ナップ タイダイ ワンセ タイピン マスコット ロード ワイマ ニチニ コカトリ ダナキ フリーラ ホンコン ミング ノーマ タミフ リトル バッテ スクエア カアト イソ次世 ミー スター

一方、柴田勝家を総大将とした織田氏の援軍は七尾城救援に向ったが、途中で落城の報に接した。9月23日の手取川の戦いでは、勝利の余勢を駆って加賀に進んだ上杉軍に攻め懸けられ散々に打ち破られている。

この後暫く能登は上杉勢力下だったが、謙信死後は能登国内の反上杉勢力や飛騨経由で越中に攻めこんだ織田勢力に圧迫され、信長の手に帰した。


2009年01月20日

高度な文明を有する諸国家

民俗学(みんぞくがく)は学問領域の一。高度な文明を有する諸国家において、自国民の日常生活文化の歴史を、民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問。民族学や文化人類学の近接領域。

民俗学は、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を相対的に説明しようとする学問である。

この学問は、近代化によって多くの民俗資料が失われようとするとき、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬やナショナリズムの高まりとともに誕生した若い学問であり、日本もその例外ではない。日本の民俗学は、ヨーロッパ特にイギリスのケンブリッジ学派の強い影響をうけて、柳田國男や折口信夫らによって近代科学として完成された。通常はfolkloreの訳語とされるが、folkloreは民間伝承(民俗)それ自体をも指すため、英語圏では民俗学をFolklore-StudiesやFolkloristicsと呼ぶことも少なくない。

人間の生活には、誕生から、育児、結婚、死に至るまでさまざまな儀式が伴っている。こうした通過儀礼とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習俗、習慣、しきたりがある。これらの風習の中にはその由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれているものもある。民俗学はまた、こうした習俗の綿密な検証などを通して伝統的な思考様式を解明する学問でもある。

民俗学の学問としての諸特徴
時代や学者によってその定義は多岐にわたり、概説的に説明することはむずかしいが、大まかにいえば以下のような特徴を持つ学問である。

研究の目的は、ある民族の伝統的な文化、信仰、風俗、慣習、思考の様式を解明することにある。また、こうした対象の歴史的変遷とともに、時代をさかのぼりながらその原初形態を明らかにしようとする傾向を持つ。
研究の対象が自民族の基層文化である場合は、他民族の事例を自民族の研究の補助材料として使う場合が多い。
研究の手法として、文献資料のほか、現代社会に残存する文化・風習・思考の様式を重視する。このためフィールド・ワークによる材料収集を行う。
また未開であると考えられる他民族の文化・風習・思考の様式を、人間のプリミティブな精神活動のあらわれであると考え、これを研究上の材料または補助材料とすることも多い(この点について、現在ではポスト・コロニアルな考えからから批判が行われることがある)。「未開」と「古代」(始原)の同一視は民俗学の特色のひとつである。
現代人が無意識のうちに行っていること、あるいは合理的な説明をつけながら行っていることのなかに、古代的な意味を見出す、という型の研究が多い。
日本では文学研究・批評に大きな影響を与えており、この点で文化人類学・民族学とはことなった特色がある。
特に日本の民俗学研究にあっては、その初期に大きな影響を与えた柳田國男、折口信夫の二人が強烈な個性の持主であり、西欧渡来の学問の手法を消化して日本独自のフォークロアを完成させたため、「柳田学」「折口学」といった名で呼ばれることもある。また、柳田自身、「新国学」と称して民俗学の体系化を試みており、近世以来の国学の影響も強い。

民俗学史
日本で民俗学といった場合、一般には日本民俗学を指すが、海外を見ると19世紀の欧米を中心として、多くの国で民俗学に相当する学問が誕生している。誕生の経緯は国ごとの政治的社会的状況や民族学(文化人類学)等との関係によって多様である上に、他の社会科学のように国際的な交流が盛んではなく各国独自の進展をしてきたこともあって、一概に民俗学の歴史を語ることはできない。
スノー モヘア サイトシス ネグロ ノンフ バルカ バチス ほうじゅん フラー レンズフ ラリア だるま ネコヤ ストリ ステッキ クスノキ サーベル シシウド スタジ レトリック ハイカラ マジッ ローレル シンデレ 交響曲 ブランク ウバイ リアル ブレス ゲイン ガイドヨニ ギアナユ パール ずきん テロップ パイレ ロコ リスボ ジャンク 冬中夏草 女神 ジャンプ亭 ケープ ノーダ オーバー フィアン イカの石 コロラド おみたま おもちゃか

ヨーロッパの民俗学
ヨーロッパで民俗学的な関心が高まった背景には、近代化と都市化、あるいは資本主義化による急激な社会変化を前に、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬や民族意識の高まりが存在する。

イギリス、フランス民俗学
イギリスでは1846年、トムズ(William John Thoms)が古代文化の名残や民謡をfolkloreと名付けて民俗学研究の草分けとなったが、学問の組織化としては、1878年にジョージ・ゴム(George Laurence Gomme)らがロンドンに“Folklore Society"(民俗学協会)を設立した時期を端緒とする。進化主義人類学が波及力を持っていた19世紀末のイギリスでは、民俗学も庶民の習俗に見るキリスト教以前の残存(Survival)を対象にするとともに、自民族のみならず海外植民地を関心に入れるなど、人類学との近接性が顕著にみとめられる。それは1885年に民俗学の協会が設立されたフランスも同様であり、20世紀初頭にかけてサンティーヴ(Pierre Saintyves)、ロベール・エルツ(Robert Hertz)、レヴィ=ブリュル(Lucien Levi-Bruhl)、ファン・ヘネップ(Arnold van Gennep)といった学者が、近代的な民俗学・人類学研究を進めた。彼らのアプローチに異同はあるにせよ、民間伝承の起源を遡及し原始的な民族心理の究明を重視する点では概ね共通している。またエルツやレヴィ=ブリュルはモース(Marcel Mauss)やデュルケーム(Emile Durkheim)などと近く、ファン・ヘネップも後にターナー(Victor Turner)へ影響を及ぼすなど、人類学や社会学と不可分の位置にあったこともフランスの民俗学研究の特徴だった。

ドイツ民俗学
一方、ヨーロッパにおいて最も盛んに研究が行われてきたドイツでは、民俗学はフォルクスクンデ(Volkskunde)と呼ばれ、フォルク(ドイツ民族/ドイツ国民)に共通する精神の発見という民族主義的な色彩が濃い学問であった。もともとドイツ語圏では哲学者のヘルダー(Johann Gottfried Herder)や童話作家や法学者として有名なグリム兄弟らが、ドイツロマン主義やゲルマニスティック、神話学に基づく民謡や説話の民俗学的研究を行っていたが、1850年代にフォルクスクンデの名で科学的な学問体系を整えたのはリール(Wilhelm Heinrich Riehl)である。工業の発展に伴う農村の疲弊を前にし、リールは社会政策的な意図も込め、伝統習俗の研究を通してドイツの統一的な民族精神を見出す点に民俗学の目的を定めた。1891年にはベルリンに民俗学協会が設立され、さらに20世紀前半には、初めて大学での民俗学ポストに就いたラウファー(Otto Lauffer)、『ドイツ民俗地図』を編集したスイスのホフマン=クライヤー(Eduard Hoffman-Kryer)、民族心理学のシュパーマー(Adolf Spamer)、上層文化/基層文化の二元理論を提出したナウマン(Hans Naumann)など、多くの理論家が生まれた。

しかし現行の習俗を古代との連続性(Kontinuität)があるものと捉え、農村生活や農民に原初のドイツ民族精神を見出す民俗学は、本質的に民族主義的な政治イデオロギーに取り込まれやすい性格を有しており、1933年以降の国家社会主義時代には国民統治および人種主義の国策学問へと取り込まれていった。多くの学者はナチズムに同調するような研究をせざるを得なかったが、少なからぬ学者がナチス党員として積極的に政治へ関わり、プロパガンダ作成や民俗行事の創出に関わった。そのため戦後の西ドイツ民俗学界は、完全に学問としての信頼を失ったフォルクスクンデの政治性を自己批判することを原動力に、再出発を図ることになる。ミュンヘン大学ではモーザー(Hans Moser)が中心となり、民族主義との親和性の高い過去遡及型の方法を放棄し、より実証的な歴史民俗学への道を模索した。またモーザーやチュービンゲン大学のバウジンガー(Hermann Bausinger)はフォークロリスムス(Folklorismus)の概念を提案することで、観光化された祭り・イベントや新たに創出される習俗を民俗学の対象に取り込み、変化しにくい伝統習俗のみに固執する旧い民俗学からの脱却を行った。バウジンガーは1971年、同大学の研究所からフォルクスクンデの名称を廃し、代わりにInstitut fur Empirische Kulturwissenschaft(経験主義的文化研究所)の名を冠した。このように1970年代以降のドイツ民俗学では、戦前の清算を象徴するようにフォルクスクンデの名が消えつつあり、同時にその方法も歴史主義から文化人類学や歴史社会学など、社会科学寄りへと大きく変容しつつある。